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( ^ω^)孤独だけど

1 :名前は誰も知らない:2006/11/08(水) 11:21:21 ID:aHbgJQmG0
( ^ω^)寂しくなんかないお

( ^ω^)寂しくなんか・・・・・・

( ;ω;)うぅ・・・・・・

2 :名前は誰も知らない:2006/11/08(水) 11:44:16 ID:wTRpp8mV0
2ゲットですが何か?

3 :名前は誰も知らない:2006/11/08(水) 11:45:13 ID:wTRpp8mV0
何かを成し遂げたいと思っているかぎり、永遠にできないことがある。自分には無理で、あきらめ、絶望した瞬間に向こうからやってくるものがある。

この世の真理、悟りを求めて、家、家族、友人、田畑、仕事を捨てた人がいた。ひたすら悟りを求めて、座禅し、瞑想を繰り返し、マントラを唱えた。しかし何も起こらなかった。

自分が捨てた家族、家、友人……、あれはいったい何だったのだろう。この男は実際には何も捨ててはいなかった。捨てることで得られると思ったもの、
つまり永遠の真理、悟り、そのようなものを望んでいるのは執着以外の何ものでもない。
すべての執着を捨てる。 いや、捨てなければならないと思っているのなら、それは「無」への執着にすぎない。「有」への執着が「無」への渇愛に変わったにすぎない。

この男は自分が捨てた家族、家、友人、仕事の見返りとして、新たな執着を作り出し、以前よりいっそう強欲になっていたにすぎない。
禅寺に通い、何年も修行をしたが何ひとつ変わらなかった。とうとう自分自身に絶望した。
本心から、死ぬしかないと思った。そのとき頭の上でカラスの「カーカー」という鳴き声が聞こえた。この瞬間、この男は悟った。

何の見返りも期待せず、ただひたすら受動的に生きているとき、何かに気づくことがある。 ところがほとんどすべての人の「よい行い」には、何かの見返りを期待する心がついてくる。
どこかでかならず自分自身への見返りを期待している。どこまで行っても、結局すべて、自分のためでしかない。

本当に自分自身を捨てて、山間に咲いている一本の花のように、ひたすら受動的に生きることは私たちにも可能なのだろうか。世間に対して、何のカルマもばらまかずに生きることは可能なのだろうか。
いや、できないことなのだろう。私たちが生きるということは、常に恐ろしいほどの業欲を発散している。

一度徹底的に自分の欲の深さに気づき、絶望してみるところからしかスタートは切れない。 心底絶望すれば、庭先に飛んできた雀の「チュンチュン」という鳴き声でもわかるときはわかる。

4 :名前は誰も知らない:2006/11/08(水) 11:58:47 ID:3hwmjzqqO
vipから来

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